クレイジー・ハニー



   彼は、胸の奥に絡まった甘い甘い蜂蜜のような存在だ。
 俺はその蜂蜜を飲み干して、きれいに舐め取ってしまいたいと思う。
 しかしその蜂蜜のとれる蜂の巣の入り口というのは、俺の腕が入らないほどに細い。俺はその届かないあと少しの蜂蜜がもどかしくて、ただひたすらに、狂ったように思案をする。
 どうすれば彼を飲み干せるか。
 恐らく俺はそれだけを考えて、この蜂の巣の前で、餓死でもするのだろう。

 「もう終わりか。」
 冷たくあしらってみた。その後すぐに退屈そうな狩屋の欠伸が続く。頭を抱えた天馬が、目をぎゅっと瞑って、考えている。
 「う〜ん、ちょっと待って・・・」
 「因みにリスは既出な、天馬くん?」
 「リンゴも出たよね」
 「リクルートスーツとかもあったけど」
 察しの通り、しりとりである。部活の時間に練習もしないで仲良くしりとりかと思われるかもしれないが、俺ははじめから不本意であるし、恐らく狩屋も不本意で、しかし彼は今や無駄に賢い頭をフル回転させてしりとりをしている。本日2、3年の先輩は卒業式の練習によりなかなか抜け出せないようだ。
 因みに、”り”のつく言葉を、天馬が考えている最中なのであるが、この地獄のしりとりが始まって既に30分。順番は天馬、影山、狩屋、西園、そして俺。空野は近くでそれをずっと見ている。男同士の戦いだからと、天馬が参加させなかったらしい。そういうことなら、俺も手加減はできないだろう?
 「剣城が”り”のつくものばっかりまわしてくるから・・・。」
 「これは戦争だ。」
 「あれ、剣城くんも意外とノリノリ?」
 狩屋の茶々はいちいちうるさい。と、顔だけで表すが、さすが賢いのか馬鹿なのか、自分に都合の悪いことは見えないという素晴らしい目と脳を持っている。
 うーん、うーんと唸る天馬にしびれを切らし、終わりにしようかと立ち上がった。そろそろ誰も飽きてきたころである。 
 「負けたやつはジュースおごりなー」
 「ええー!無理無理!」
 「おいおい、お前が言ったんだろ?俺はいちごみるくがいいな。輝くんは?」
 腰に手をあて、狩屋が幼い、意地悪な顔をする。不意に呼ばれた影山が、「ええっ」と声をあげてから、心配そうに天馬の顔を覗き込んで口を開いた。
 「ぼ、僕はいらないよ?意地悪なのは、狩屋くんだけだから、ね、天馬くん・・・」
 「輝が神様に見える・・・」
 「それって褒められてるの・・?」
 影山が少し首を傾げる。そのやり取りがなんだかおかしくて、口に手を当て笑いを抑える。空野のやわらかい笑い声が聞こえた。
 「ていうか先輩たち遅いよねー」
 顔を上げて俺たちを見上げている西園が、思いついたように口を開く。それぞれが「そうだね」だの「そういえば」と反応をする。帰ろうかなどと冗談を交わしていたちょうどそのとき、棟の入り口のドアが開いた。
 「すまない、お前ら。今日はもう帰っていいぞ。」
 棟に入るのと同時に口を開くのは神童先輩だ。天馬と西園が駆け寄って、それぞれ口を開いた。
 「明日は練習、ありますよね!」
 「ああ、たぶん、な。」
 はは、と微笑む神童先輩につられて、二人も笑う。それだけ言うと、先輩はそのまま棟を出て行った。
 「帰ろっか」
 空野がにこりと笑う。誰に言うわけでもないけれど、彼女のすぐ隣にいた狩屋がぴくりと反応して、顔を赤らめた。時々思うが、こいつは恐らく女が苦手なのだろう。俺がどうこう言える立場でもないのだが。
 「着替えるの一番遅い人はジュースおごりー!」
 「またかよ・・・」
 「そう言ってる天馬本人が一番遅かったりして」
 中学一年生とはそういうものなのかもしれない。何事に対してもおもしろくしたがって、競争をして、勝っても負けても笑っている。実にくだらないことなのに、それがすごく心地良い。この雷門にきてから、俺は随分と”雷門病”に冒されているのだろう。
 そそくさと更衣室に走っていく天馬や西園、狩屋。後から「ねえ、それ私も?」と甲高い声。「置いていかないで」と焦っている影山の声も聞こえた。ああ、くだらない。そう、ふっと笑ってやった。天馬がちらりと俺を見て、「剣城ビリになっちゃうよー」と言い、笑った。
 俺をなめるな、すぐに行くさ。




 「また明日ね」
 夕暮れの校門。もうほとんど生徒はいなかった。恐らく上級生は体育館にいて、他の一年は帰ったと思われる。そこまで赤く橙の風景ではなかった。天馬の髪の色のほうがまだ鮮やかである。校門を出てすぐに狩屋と影山は俺たちとは別の方向に帰っていった。少し急ぎ足な狩屋と置いていかれないように必死にそのあとを追いかける影山の後ろ姿を見送る。
 はっと思いついたように、天馬が口に手をそえて、「俺はいちごみるくねー」と叫んだ。すぐに後ろを振り返った狩屋が「わーってるよ、うっせーな」と不満だらけに声を投げた。ビリは狩屋だった。
 さあ、帰ろう。俺の歩幅と空野の歩幅とじゃあ到底合わないのだが、今日はこいつらと帰ってもいいかと歩幅を合わせてみる。同時に速度も遅くなったようで、毎日こんなにのろのろと登下校しているのかと呆れた。
 「今日ね」
 天馬が後ろ向きで歩く。慣れているのだろう、突っかかったりするような素振りはない。
 「秋ネエがクッキー焼いてるって」
 「えっ、いいなぁ。僕も食べたい」
 「おいでよ!いっぱい作るから、食べにおいでって言われたの」
 「私も行きたい!」
 はて、秋ネエとは誰のことだろうか。俺の知り合いにはいないと思われる。静かに彼らの話に耳を傾け、その人気の”秋ネエ”の想像図を思い浮かべる。
 「いいよ、剣城は?」
 「ん?」
 空野と西園がぷっと吹き出す。俺が間抜けな返事をしたことに笑いを堪えている。
 「くる?ウチ。」
 「お前のか」
 「うん」
 そういえば天馬の家には行ったことがなかった気がする。といっても、他人の家自体になかなか行くことはないのだが。
 あまり実感が湧かない。深く考えずに「ああ」と言った。西園が「すごい」と小声で言ったのは聞こえているが何も言わないでおく。恐らく俺がぼうっとして、率直に返事をしてしまったのは、天馬のその、美しい藍色の瞳が、まだ若干明るい夕日を反射する川の光にきらきらと瞬いていたからだと思う。我ながらどうかしていると思ったのだが、実に美しい。兄の髪の色も、きっとこのように瞬くのだろうか。俺とは違う、美しい質を持っている彼らが羨ましい。



 天馬の住んでいるアパートに着く頃には、風景は綺麗に橙の色をしていた。月がうっすらと見える。今日は酷く欠けていた。「木枯らし荘」と書かれた小さな看板を見る。その側には、薄青のカーディガンを羽織った女性が、箒を持って掃除をしていた。それを見つけた天馬が、会心の笑みで手を振る。
 「秋ネエ、ただいま!」
 彼女が話題の秋ネエらしい。天馬の姉にしては、まったくと言っていいほど、その天馬の騒がしさという雰囲気からかけ離れている。しかも、アパートの掃除をしているだなんて、血が繋がっているとは思えない。こいつと血が繋がっている姉弟が、掃除をするわけがない。失礼ながらにそう確信をした。
 「おかえり。信助くんと葵ちゃんもいらっしゃい、あと・・・・」
 ちらりと俺を見る。真っ直ぐな目が監督に似ている気がしないでもない。目が合ったので、慌てて逸らす。俺らしくない。
 「剣城京介、です」
 「ああ、剣城くん!天馬からずっと話を聞いてたのよ」
 ああ、そうだな。こいつならなんでもかんでもべらべらと喋る大馬鹿だから、大して動揺はしていない。代わりに天馬を見やって、ふん、と鼻をならす。
 「入学早々、剣城くんの話ばっかりで・・・一年生でしょう、この前の親睦会、来るかなあって待ってたんだけどね」
 「親睦会?」
 「あら、ちょっと、天馬。剣城くんに言ってないの?」
 「だってあれ、帰りに思いついただけだもん・・・」
 「もう」
 くだけた笑い声の中に混じるのは久しぶりだ。もう、ずっと、入れないと思っていた。兄の顔が浮かんで消える。今は考えないことにしよう。そのほうがきっと彼も幸せだろう。
 「じゃ、騒がないでよ?木暮くん、疲れて帰ってきてるから」
 「はぁい」
 ばたばたとすでに騒がしい足音で天馬はアパートに入っていく。続いて西園、空野、俺。ふと、なぜここに俺はいるんだろうかと思った。
 天馬の部屋は、殺風景であった。物がないわけではないが、色がない。古いサッカーボールが、タンスの上に飾られていた。あまりにもきょろきょろとするのは失礼なので、サッカーボール一点を見つめる。記念品か何かだろうか。
 「まさか剣城が天馬のウチにくるなんてね」
 「びっくりだよ。剣城のことだから、俺は帰る、フン。とか行って帰るかと思った!」
 「すごい、信助、ちょっと似てる。もう一回やって!」
 西園の俺の真似が似ていると騒いでいるのだが、本人としては、微妙である。自分がそうであるのかはよくわからないが、確実にこんな高い声は、逆に俺が出せない。制止するのも面倒なので、そのやり取りを見る。
 「え〜、ちょっと待って・・・」
 目を瞑って、咳払いをする。
 「サッカー・・・やろうぜぇ・・・?」
 「うわ、すごい!超似てる!」
 「似てないだろ」
 「あっ、ご本人登場です!」
 「やめろ」
 おかしい。笑いたくて、しかたがない。はは、と声が漏れる。天馬が俺を見た。
 「剣城、笑ってる?」
 「笑ってない。」
 「笑ってる!信助、剣城笑ってるよ!」
 「えっ、ほんとぉ! でっでーん、剣城ー、アウトー!」
 「笑ってない!」
 もう二度と入れまいと覚悟していた、笑顔の絶えない会話。そこにいる俺が、自分で羨ましくて、憎らしい。
 その後すぐに、クッキーを持った天馬の肉親が現れたのだった。





   すっかり遅くまで居座ってしまったようだ。今日は見舞いに行くといった約束を思い出した。もうとっくに面会の時間を過ぎている。俺は初めて兄との約束を破ったのだった。アパートの前で、天馬が口を開く。
 「明日は練習、あるかなぁ」
 「あるある!もう、なくても勝手にしちゃおうよ」
 「4人でぇ?」
 「パス練・・・とか・・・」
 星が綺麗に瞬いている。夕方見えた月も、今ではくっきりと見えるようだった。「じゃあ明日ね」といって西園が天馬に笑いかけた。俺もその後を追うように、立ち去ろうと歩き出す。
 「剣城」
 呼ばれた声に振り返る。この声は俺を深い意識にまで引き戻す力を持っているのだ。しかし、彼を見ると、その力を持っているのは、声だけではないと感じさせられる。目を逸らす。真っ直ぐな目を、見返してやれるほどの度胸を、俺は残念ながら持ってはいなかった。
 「なんだ」
 我ながら、なんと愛想のない受け答えなのだろうと苦笑したくなる。こういうとき、狩屋はきっと完全に剥がれない強力接着剤でくっつけた仮面を何を深く考えるでもなく自分のものにして笑うのだろう。その仮面の裏側には何があるのかを、俺は知らない。
 ちらりと天馬を見た。俺のあまりにも冷えた対応に、少しだけ、怯えているようだった。
 「あの、」
 言葉が、つまづく。その幼い声にいらいらして、少しだけほっとした。
 「病院にいくの」
 「行ったら、悪いか」
 いや、行かない。そう心で言ってやる。口から出るのは、いつだって本音から遠ざかった別物だった。
 「そうじゃないけど」
 天馬が頬をかく。困ったように眉をひそめていた。俺とこいつとじゃあ、あまりにも違いがありすぎて、どうして合体技が成功したのか疑問に思った。
 「少し、話したいなあ、と」
 街灯のおかげで暗くはなかったが、俺はこの状況下で街灯を恨んだ。天馬の悲しげな顔が、美しく照らされていた。
 「もうとっくに、面会時間は過ぎている」
 その顔を見るのが辛いのだ。どうして、俺が天馬に振り回されなければならないのだ。苦しいことを抑えてでも、やはり俺は、彼とまだ一緒にいたかった。遠まわしな俺の回答に天馬が笑う。
 「よかった。って、あれ、よくないよね?」
 「どうだろうな」
 このまま立ち話でもするのかとポケットに手を入れて、ふぅ、と息を吐き出す。
 「河川敷に行かない?」
 その提案に、とくに断る理由はなかったので、黙って歩き出した。天馬は俺の肯定を察してか、急ぎ足でついてくる。ああ、そうだ。こいつの速度と俺の速度は、差がありすぎるんだったな。


 ここから河川敷というのは、案外近かった。住宅街を抜けると、街灯に照らされたサッカーゴールが見えてくる。寂しげにぽつりとたっていたそれをみて、目を伏せた。天馬が走って、階段に座る。手を振って俺を呼んでいるのが確認できた。
 「疑問に思っていたことがある」
 座っている彼を見る。見上げた顔が、「なに?」と言った。一呼吸置いて、口を開く。
 「秋さんというのは、お前の姉か?」
 天馬の口元が、きゅっとしまった。すぐに笑って、首を振る。
 「でも、お姉さんみたいなかんじ。」
 なんとなく、彼の瞳の奥は笑っていない気がした。なぜそんなことがわかるのかと言われればどうにも答えにくいのだが、この目を同じ目を、俺は数年前に見たことがあったのだった。
 「アパートには、一人で住んでいるのか」
 「うん」
 中学生が?心底疑問に思ったが、何も言わない。言えなかった。どうして、彼はこれほどまでに、悲しい顔をするのか。それだけが心に引っかかって、掴んで、離れない。ああ、俺は、天馬の弱さを、闇を、知らない。
 「でも、秋ネエがご飯も作ってくれるし、洗濯もだし、・・」
 明るく振舞っていることがすぐにわかった。いらいらする。俺にはわかるのに、誤魔化されるのは大嫌いだった。襟元でも掴んで、笑うなと言ってやろうかと思った。俺はこいつの弱さを知っているのかもしれない。そうだ、口から出るのは、いつだって。
 「天馬」
 俺は。  襟元を無造作に掴む。驚いて見開かれた大きな瞳が、俺を見て、離さない。
 「お前には、蜂蜜でいてほしい」
 自分で何を言っているのか、呆れるほどに、わからない。恥ずかしさはなかったけれど、自分が嫌になってくる。「え?」と聞き返す声が、また、俺を自己嫌悪に陥らせるのだ。自分の伝えたいことが、どうしても自分でわからなくて、しかも伝わらない。いらいらする。八つ当たりだとわかっていて、こうしてしまう。
 「変わるな。お前の弱さを、俺に見せ付けるな。」
 「剣城・・?」
 弱い天馬を見ることが、嫌なだけだ。自分から目を逸らせばいいのに、俺は見てしまう。それでも天馬の弱さを知りたくない。知りたくないのだ。知ったところで俺は、彼に何もできやしないのに。
 「知りたくない」
 手を離すと、天馬はその右手に、自身の左手を重ねた。ここで初めて、俺は男相手に、こんなにも顔を近づけてと吐き気がした。天馬の暖かい手が、震えている。知りたくない弱さを、目の当たりにしている。
 「蜂蜜って」
 ぽつりとつぶやいて、彼は俯いた。左手は俺の手を離れ、俺の左胸にぽん、と置かれる。
 「俺のこと?」
 今更否定しても言い訳のしようがないので、こくりと頷いてみせる。「やっぱり」と付け加えて、天馬はか細い声で言った。
 「剣城にとって、俺は邪魔な存在でしか、ないよね」
 彼の世界観は、まるで俺のものとは違うのかもしれない。言っている意味がわからない。黙っていると、天馬は再び口を開いた。
 「蜂蜜って、べたべたするでしょう」
 「・・・」
 「まとわりついて、離れないの。」
 俺は逃げてばかりだ。天馬がいつだって、人を助けるために、救うために自分を犠牲にしていることを俺は無視をして、彼を闇から救おうとは一度もしたことがなかった。
 「俺は、剣城のここに、ずっと奥にいて、剣城が嫌になっても、それでもしつこくくっついて」
 彼は自分の存在を、こんなにも否定し続けて、それなのに、一生懸命他人の存在を認めてきたのだ。他人を認めるたびに、恐らく彼は、彼の中で次第に消えていっている。それは今でも進行していて、このままでは天馬は、消えてしまうのだ。
 俺はどうしてもこの現実から逃げて、彼を天馬として認めてやることは、一度だってしなかった。
 「洗ったら消えるよ」
 手が離れる。暖かさはまったく伝わらない。離れても冷たいとは感じない。彼はもう、彼の中で押しつぶされて、消えていた。
 「俺は消える。剣城が全部洗い流したときに、俺はきっと消えるから」
 唇を噛んだ。痛い。じわりと鉄の味がした。天馬に手を伸ばして、止める。黙って引っ込めて、顔を逸らした。
 「だから、この蜜のために、待っていないで」
 ああ、彼は、蜂蜜だ。
 俺はその蜂蜜を飲み干して、きれいに舐め取ってしまいたいと思う。
 しかしその蜂蜜のとれる蜂の巣の入り口というのは、俺の腕が入らないほどに細い。俺はその届かないあと少しの蜂蜜がもどかしくて、ただひたすらに、狂ったように思案をする。
 どうすれば彼を飲み干せるか。
 ああ、そうだ。飲み干せやしない。それをわかっていて、俺はまだこの巣の前に立ち止まっている。
 どうすれば彼を、飲み干せるか。
 お互いに依存をし続けるだけだ。俺はどうしてもこれを飲みたい。彼はどうしても、外に出ようとはしない。それでも、お互いに求め合うだけだ。
 どうか、この入り口を、彼の闇を、照らして。


 どうしても彼を飲み干せない。結論は出ている。それでも。
 恐らく俺はそれだけを考えて、この蜂の巣の前で、餓死でもするのだろう。



   しかしそれが、笑えるほどに、本望であることを、俺は奥底で知っていた。そして俺は、口元を歪ませる。彼の弱さごと全部この巣に閉じ込めて、それをじっと見ていることが、ああ、なんて楽しいことか。






京天とかもかくんだよ私
脱稿記念でした。